ウラギリ




風はそう強くなかった。ただ五右ェ門の髪を、袂を、僅かに吹き上げて抜けていく。
 もう二、三ヶ月は彼らと会っていなかった。
 かつて孤独は彼にとって空気とごく近しい、自然にあるモノだったにも関わらず、近年はふとした刹那にその存在をありありと実感する。「お陰」か、「せい」か。
 あるかなきかの笑みをちらと浮かべたのと同時に、五右ェ門は目を開けた。
 背後の足音が止まる。
 流れてきたのは嗅ぎなれた煙草の、吹き散らされた煙。ただ荒れて水気のない岩場の空を、薄く白く横切っていく。
「ヨォ」
「次元か」
 声に、岩上に胡坐を組んだまま五右ェ門は返した。振り返らずに、「何しにきたんだ?」と少し笑いながら訊ねる。すると煙草を吐き捨てたらしい、軽くつばを吐くような音がした。
 次元の答えは目に見えていた、ハズだった。ルパンがらみか、気まぐれか。だが背後の気配が不意に変質する。
 暗く、冷ややかな嘲りのものに。
「……!」
 振り向いたまさにその瞬間の間合いは、零に等しかった。ぞっとするほど近くに彼の黒い帽子があり、その下に歪んだ笑みを浮かべた口許があり、鬚がある。咄嗟にバク転し跳び離れたのは五右ェ門ならではだ。だが、それはやはりほんの少しだけ遅かったのだ。
 殺りにきたんだヨ。
 跳躍する間際次元はそう掠れた囁きを落とし、転瞬、冷酷無比なまでの正確さで五右ェ門の手から流星を蹴り飛ばしていた。
 そして抜き放たれた銃が轟然と空気を振るわせる。
 血飛沫。
 ぼたりとしたたったそれは、岩をつたい、間の乾いた土にどす黒い染みを次々とつくった。
 脈動とあわせて滴り落ちる血は、五右ェ門のこめかみから。髪を重く濡らし、左頬をぬめりと這い、なお悪いことには左目をほぼ完全に塞いでいる。激痛と頭のすぐ近くを弾が掠った衝撃に、さしもの五右ェ門も喉の奥で低く呻いた。あるいは、そのためだけではなかったのかも知らないが。
 ふらついた体をざっと横滑りした草履の足裏で支える、その音と混じって何か硬いものが砂利に食い込む音がした。半分に潰された視界を凝らす。
 次元が、流星を砂利に押し込むようにして踏みにじっていた。
「久しぶりだが、ウデはおとろえてないな、五右ェ門。今のをよけるたァ」
「次元、オマエ……」
「そう睨むな。後悔したくなるじゃねェか」
 皮肉な口調はまさしく常の次元以外の何者でもないのに、靴裏では流星を踏みにじり、利き腕は無造作に五右ェ門に銃口を向けている。
 何故。
 いっそただの確認ともつかぬ無言の問いかけに、返るものはなかった。
 代わりのように唇の端がちらりと上がり、冷たい笑みになった。
 間もなく放たれるだろう銃弾を避けようにも、片目が潰れていては遠近感がまるで利かなかった。いや、相手がもし次元でなくほかの人間であれば、それでも充分に避け得た。だがそれは仮説に過ぎず、目の前にいるのは次元で、そして流星も手にはない。
 はるか先のようにも、目の前のようにも感じられる銃口を五右ェ門はただ見つめた。黒洞々たる一点は無感動に深く暗く、嘲るような殺気を秘めている。まるきり飲み込まれそうなほどに。
 目前の死。アッケなくもあるようでその実ひどく押し迫ったそれに全身の神経が逆立つような気がしたが、何故か強く抗う気は起きなかった。
 自問する。そうして、ああ、と五右ェ門は思った。
 相手が次元だからだ。だから裏切られたという思いよりも先に、かなうことなら流星を再び握り、本気の死闘ののちに死にたかったというこの感情が成り立つ。ついでに、少なくとも「外すな」という注文をつける必要も、彼相手なら、ない。
 五右ェ門の心を知ってか知らずか、次元は無感動に別れを告げる。
「じゃあな、五右ェ門」
 こめかみから滴る血と同じぐらい緩慢に瞼を下ろしながら、五右ェ門は奇妙なほど平坦な心境で、刹那響いた二発の銃声と右頬を背後から掠める熱を同時に感じた。
 風が、ゆるく袂を吹きさらしていく。
 血に濡れていないほうの髪を、
 風が。
 五右ェ門は目を見開いた。硝煙が風とともにひりつく右頬を撫でていくが、それ以上の衝撃もあるべき痛みも、何もない。
 撃たれていない、と悟ってからようやく、五右ェ門は目前の次元を認識した。
 頬を歪めて笑っている彼を。そしてその向こう、岩上に小さく立つ、派手に赤い見慣れたシルエットを。
 飽きるほどに繰り返したはずのその名を思い出すのに一瞬の間が必要だった。ルパン。思い出した途端、五右ェ門の片目に驚愕の色がのぼる。
 目前の次元の心臓部と腹部に、明らかな銃痕が二発分、刻まれていたのだ。
 僅かな静寂。
「チッ……追いつきやがったのか……」
 そして聞きなれぬ嗄れた声音は、次元から発せられた。
「こいつはデカイ貸しだ……それも永遠にだぞ……ハハハ……」
 苦々しさと自暴自棄を含んで彼は笑っている。銃口を構えたまま、流星を踏みにじったまま、彼はぎっと五右ェ門を通り越したはるか背後を睨み、叫んだ。
「なあ……次元、大介!」
 弾かれたように振り向いた五右ェ門の視界の中で、硝煙立ち昇る銃口を未だ構えた黒ずくめの男がこちらを見ていた。帽子の影に細く覗いたその視線と、片方を流れ落ちる血にふさがれた視線がかち合う。
 どう、と、五右ェ門に銃を向けていた「次元」がようやく倒れたのだろう音がした。
 ゆるくゆるく、緩慢に風が吹き抜ける。
 硝煙が、薄く長くのびてゆく。
「ったく、イサギヨイってのも度が過ぎると考えモンだぜ五右ェ門チャン」
 静寂を無遠慮に破ったのはルパンの声だった。こちらも硝煙立ち昇るワルサーを片手に引っ掛けたまま、気楽に五右ェ門に歩み寄ってくる。そちらへ向き直ろうと体をひねりかけた五右ェ門は、次元がホルスターに銃を投げ込むように納めて踵を返すのを見た。
 岩陰に消えていくその背を呼び止めようとして、五右ェ門は口を閉ざす。
 右頬を掠めた次元の銃弾の痕が、熱を持って疼いた。
「その右頬の傷がこたえだな」
 見なくても分かる、にやつきながら、ルパンがどうやら「次元」の傍らに屈みこんだらしい気配がした。
「見ろよ」
 促され、五右ェ門は常と比べれば随分と鈍い動作で振り返る。視線を僅かに下方に向け、仰向けに絶命した「次元」とその顎に手をかけるルパンを見た。ルパンは遠慮会釈ナシにべりべりとその顔をひっぺがしていく。
 五右ェ門の見も知らぬ顔が、その下にはあった。とは言え想像はつく。おそらくは。
「……ネズミ……」
「一のネズミだと。次元の知り合いらしいゼ」
 にいと口許だけで笑い、ルパンは立ち上がった。
「テメェの顔した知り合いに向かってぶっぱなすってのも、オツなもんだろうな」
 顔こそは最早違えど、服装体格ともに寸分たがわぬ「次元」の死体を一瞥してひょいと肩を竦める。それから「ほらよ」と、流星を五右ェ門に投げてよこした。ほとんど反射的にそれを受け取る。
「オレは」
 五右ェ門は何かをいいかけて言葉を切った。ルパンはにやにやと笑うばかりだ。責めもしなければ、かといって許すでもなく。
「いくぜ五右ェ門」
 風がまた、ひりひりと五右ェ門の頬傷を嬲っていく。
 よほど深く裂かれたはずのこめかみよりも、何故だか右頬のほうが痛かった。


 終幕


「闘い」というのとはまた外れている気もするのですが、とある方からイメージをいただき、 右頬を掠めて打ち抜くシーンが書きたくて書かせてもらいました。
どことなく原作準拠にしてみた、つもりではあるのですが…
お目汚し失礼致しました。


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