幻想の向こう側(前編)




意識は朦朧と、泥沼のように彼を混沌の深みに引き止めようとしたが、それに抗えたのは偏に彼が培ってきた忍耐力の為す術であった。
五ェ門は重い瞼を動かす。
視界は霞に包まれたようにはっきりとしない――しかし、米噛みに感じる冷たく硬い感触が、少しづつ彼を現実に引き戻していった。
ここはどこだろう。拙者は一体…。
身体を動かそうとして、食い込む縄に顔をしかめた。
腕と胴を締め付ける縄はもちろんだが、それ以上に足首と手首を拘束するそれは信じ難いほど固く、もはや手足の先の感触は無い。
五ェ門が開いたその目で真っ先に認識したものは、紫色に変色した自分の爪先だった。
執拗な拘束が、相手が彼を侮っていないことを示している。
やがて思考がはっきりと浮かびだし、五ェ門は記憶の糸を辿った。そして微笑む。
侮らなかったのは当然だ。
彼の身近にいた人物だからこそ、である。

「どういうつもりだ、不二子」
艶かしい含み笑いに、ブローニングの銃口が微かに震える。
「さすがというべきかしら。あれ程の強い薬を飲まされて、普通の人ならあと五時間は夢の中よ」
五ェ門は顔を上げない。俯いたまま気配を伺う。
不二子と――その背後に男が二人。いや、三人か。
床に座り込まされている自分に銃口を当てる不二子は、椅子に座っている。
背後の男の二人は立っているが、一人は座っているようだった。微かに緊張の気配。
痛みを承知で、試しに身体をよじってみると、立っている二人の男達は一瞬身を固くしたようだった。
不二子は微動だにしない。
自分の置かれた状況を感覚で確認してから、五ェ門は初めて不二子を振り仰ぐ。
ようやくブローニングの銃口が彼から離れた。
不二子は真っ赤なソファーに腰掛けていて、ブローニングにキスするように唇を寄せてから、胸の谷間にそれを滑り込ませた。
不二子の左手に握られている斬鉄剣を見ても、もはや五ェ門にはどうする術もない。
不二子の背後、壁に寄せて置かれたソファは不二子のものよりも幾分か上等そうな革張りのもので、そこに一人のかなり年老いた男が悠然と座っている。
その両脇を固める形で立つ、黒いスーツの若い男が二人。
不二子は五ェ門に微笑みかけながら、言った。
「ちょっと協力していただけるかしら?」

昨夜遅く、下弦の月が昇る頃、不二子はアジトに現れた。手には日本酒。
ルパンはいないの、と問うたが、それも全て計算済みだったのだろう。
五ェ門は、二人の仲を慮って、どこに出掛けたのかは適当に言葉を濁した。
それでも不二子にそんな嘘が通用するはずもなく、途端に彼女は不機嫌になった。
それで直ぐに踵を返すかと思ったが、意外にも不二子はアジトにあがりこみ、一人で持参した酒を煽り始めた。
次元は旧友と会うと行って新宿に行ってしまっている。
相手をしろといわれて、五ェ門には断る理由がなかった。
そもそも酒は好きでも度を越した飲酒は好まない五ェ門には、酒豪と言って差し支えないだろう男二人と呑むよりは、大して強くない不二子と杯を傾けるほうが性にあっていた。
最近西欧のほうで一仕事こなしてきたらしい不二子と会うのも久しぶりで、二人で晩酌するのもよかろうと思えた。
――大体にして五ェ門は、不二子のことが嫌いではないのだ。

「うかつだったな」
自嘲の色が浮かんだのは当たり前だった。
「あなたはいつもそんなものよ」
確かに…と、五ェ門は今度は声に出して笑った。
「協力とは?」
「あなたにしかできないことよ」
不二子は斬鉄剣を示す。
「拙者に出来ることならば、ルパンらに出来ぬことでもなかろう。言っておくが、下らんものを斬る程度なら、その剣さえあれば拙者の腕を使うまでもあるまい」
「下らないものではないわ」
不二子の声に異様なものを感じて、五ェ門はまじまじとその瞳を見返した。
不二子の瞳には、彼に今まで見せたことのない光が――それは命を賭した時の、いつかのルパンのそれに似ていた。
どこか子供じみている、その光。
「あなたが斬るのは、ルパンよ」
そう言い放った不二子の目は、真っ向から五ェ門の視線を受け止めていた。

「不二子、縄を解いてお上げなさい」
そう命令したのは、後ろに座る年老いた男だった。
シルバーグレイの髪には綺麗に櫛目を通してあり、頭髪と同色の淡いグレイの光沢を孕むスーツは一見して一流の物と知れる。
今居る瀟洒な部屋も、然るにこの男の屋敷の一室だろうと思えた。
品のある風貌にはしかし、何者をも恐れない尋常ならぬ威厳が溢れていた。
彼は五ェ門を見おろしたが、それは時に彼が敵から受ける不当に卑下した視線とは違って、それが逆に五ェ門を慄然とさせた。
縄を解かれたところで、この男に剣を向けることが、果たして自分にできるかどうか。
男の命令に不二子は顎を動かしただけで、実際に縄を解いたのは二人の若い男だった。
戒めを解かれても、長時間束縛された身体は自分のものでないように重い。あるいは不二子に飲まされた薬の所為かもしれなかった。
五ェ門は立ち上がらず、その場で胡坐する。
純白の、柔らかに隆起する程に毛足の長い絨毯が、感覚を失いかけた身体に心地よく触れる。
「ルパンを斬れと」
五ェ門の問いはむしろその老人に向けられたものであったが、視線を不二子から外すことはない。
不二子の瞳がそれを許さなかった。
答えた男の声に感情は滲まない。
「左様」
「何故」
「それが君の仕事だからだ」
「断る」
「それはできないわ」
引き継いだのは不二子。
「私はこの男に雇われて、仕事を請け負ったの。そして私が雇ったのが貴方。報酬はあなたの命の保証。断れば、即座に私があなたを撃つわ」
先ほど胸元に納めたブローニングに、不二子は手を掛ける。
「あなた、それでも断れるの?」
それに答えることは躊躇われた。
当然にして、五ェ門にはルパンを斬ることなど受け入れる余地のない「仕事」だ。
しかしそれは不二子にしても同じ事で、どうして不二子がこのような仕事に絡んでいるのか、五ェ門には理解できない。
「不二子、何故にこのような」
先から一度も逸らされず五ェ門の視線を受けていた不二子の瞳が、今ブローニングの銃口に変わった。五ェ門は眼前に突きつけられたその黒い穴を凝視する。
「やってくれるでしょう、五ェ門?」
その時五ェ門が、不二子の言葉に何を聴いたか――それは彼自身定かではなかったけれども、しかし五ェ門は答えた。
不二子の言葉のその響きが、五ェ門の心に淡い霞を湧き立たせ、それに抗うことができるようには思えなかった。
「承知した。請ける。詳しい話を聞かせてもらう」

部屋を移し、五ェ門は歓待と言っていい扱いを受けた。
用意された食事は全て彼の好みを熟知した和食であった。
彩とりどりのおかずの品々は、決して多からぬ付き合いでは把握し得ない彼の嗜好を反映していて、五ェ門は改めて不二子との関係の深さと彼女の細やかさを知った。
美しく深い褐色に塗り上げられた卓につき、正面にはシルバーグレイの男、右隣には不二子が座る。
若い男二人は和室に入らず、襖の向こうで待機しているらしかった。
有難く食事を頂戴しながら、五ェ門は一通り、ありきたりの契約内容を聞いた。
ルパンを斬ること、邪魔をすれば次元も許される限りではないこと。
五ェ門が裏切れば、彼自身のみならず不二子の命も保証されないこと。
報酬は五ェ門の命。それ以上は何もない。
しかしもちろん五ェ門にとっては、金品や宝物などはどうでもいいことだ。
五ェ門が食べ終えたのを見計らい、不二子が珍しく煙草をふかしはじめる。
その視線は、二匹の龍が絡み合う伽藍の、さらにその向こうを見ているように思えた。
そうして更に珍しいことに、五ェ門も煙草を所望した。
受けて男が若者に命じ、すぐに煙管と煙草盆が運ばれた。

「おぬしは何者だ?」
「それを教える必要があるとでも?」
この男とは話しにくい、と五ェ門は思う。
言葉から感情が読めないことはもとより、逆にこちらの心中など全てお見通し、という感じなのだ。
五ェ門は心を落ち着かせようと、紫煙を深く吸い込む。
「もちろんだ。拙者はもう長く、ルパン達と供にしている。ルパン達を失ったならば、その先に不安もあるのでな…おぬしの素性によっては、ルパン亡き後の我が身の振り方にも考える余地があろう」
男は唇の端から不思議に穏やかな笑みを零す。
五ェ門は指の震えを隠すかのように、灰を盆に落とした。
「下手な嘘をつくものではないよ。君も私も、そんな後日談は望んでいないはずだろう。だがまあ、いい。得体の知れない年寄りの仕事を請けるのは気味が悪いだろう」
そして男は自分のことを語りだした。
淡々とした口調ではあったが、そのとき初めて五ェ門は、男の言葉に滲み出た苦渋を感じた。
それは、恨みであり、憎しみであり、絶望であった。

独白を終えると、男は席を立った。五ェ門と不二子は二人で部屋に残された。
「不二子――先程あの男が話したことは、本当なのか?」
「ええ、全て本当よ。私自身も調べたのだし」
「拙者は――信じられん」
「でも、事実だわ」
ルパンに殺されたという、あの男の娘。紛れも無くワルサーから発射された弾丸が、幼い娘の額を撃ち抜いた。
イタリアで、中流のマフィアを相手にした仕事でルパンはその男の組織とかち合った。
イタリアマフィアはどうということもなく、最終的にはルパンとその男との闘いになった。
七年前、組織はちょうど名前が売れ出した頃だったにも関わらず、ルパンに苦戦を強いた。
ルパンは頭であるその男の、左胸にワルサーの銃口を向ける。
どうしてその場に娘がいたのか。どうして男は最愛の娘を、抱いて逃げなかったのか。
それらは今となっては意味の無い問いだった。起きた現実、それが過去の全てだ。
ルパンが引き金を引くと同時に、男の前にその娘は身体を投げ出した。
彼女にはその行為の導く結末が、分かっていたのかどうか。
男の前に愛娘の鮮血は飛び散り、それは盲貫銃創となって彼女を死に至らしめ――文字通り娘は父親の、盾になったのだ。
男はその光景を、まるでスローモーションの映像でも見るように噛み締めながら語った。
きっと幾度でも、男はその景色を反芻し、その中に沈んでいく。
それが分かるから、五ェ門は男の恨みがお門違いだと責める気にはなれなかった。

Kというその組織――次元と違い闇の世界の勢力関係には疎い五ェ門でも、その名を良く知った組織だった。
ここ十年程で急激にその支配力を広げたというが、最近ではあまり名を聞く機会が無いようにも思える。
かつては確かに、その組織を知らないということは命取りであった。
ルパンとて例外ではないと五ェ門は思っていたが…しかしルパンが必要以上にKを意識していたように思えるのも、過去の因縁が絡んでいたからだったのだろう。
ルパンはKが絡んできそうな仕事だけは避けて通っていた。
それはルパンらしくない態度にも思えていたが、ルパンなりの哀悼の念がそうさせていたのかもしれなかった。
「そして不二子――おぬしは何故、奴に手を貸す?」
不二子は俯いたまま、夢を見るように呟いた。
「可哀想だと思ったからよ」
そして不二子は五ェ門を見た。
「彼はやるわ。貴方が仕損じても、他の殺し屋を連れてくるのでしょうね。五ェ門、私は貴方にやって欲しい。マグナムでも、私のブローニングでもなくて…貴方のその斬鉄剣で」
和室に入ってから初めて、五ェ門は不二子と視線を合わせた。
そして、なんとなく心に懸かっていた霞のようなものの正体を、今ははっきりと自覚して、力強く頷いた。
「必ず――」




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