その断崖から飛べ




【序景 動機-きっかけ-

いつのまにか星が出ていた。
薄絹をゆらりと広げたように夜の帳が下りてくる、もうそんな時刻だった。
広がる街並み、ほとんど同じような高さの建造物がひしめく中、ひときわ抜きん出てそびえたつのはサン・ルノウ大聖堂である。成層圏に近づけば宙(そら)はさらに濃紺の度合いを増し、大気の深海部にはまだ煙の匂いの残る礼拝堂が、辛うじて燃え残ったその姿をとどめていた。
ルパンは紫煙を風にさらわれながら大聖堂を遠く見やった。切れた唇にときおり煙が沁みる。
「幸運を祈るぜ…」

話は二週間前にさかのぼる。
大聖堂に程近いホテルのバルコニーで、ルパンと次元はグラスを傾けながら鐘の音を聞いていた。
「聖職者が、性的虐待…?」
次元は夜風に読みにくそうに新聞を広げて眉をひそめる。
「おぞましいねえ、ゴシップ記者が我先に群がりそうな見出しだぜ」
紫煙は風に鋭く流されて消えてゆく。その方向に重厚なたたずまいのカテドラルがあった。
「ま、ぞっとする話よ」
オペラグラスの倍率を調節したルパンは、大聖堂をくまなく観察しながら相槌を打つ。
サン・ルノウ大聖堂。中世ゴシック建築の影響を色濃く受けた様式。複雑な彫刻をほどこした数多くのレリーフ。建物の内部、空間という空間を埋め尽くす壮麗な壁画。
「まァ、どれもこれもお宝としての価値はあるんだが…っと」
「ああいうとこってのは、外界とはまるで異質な世界だっていうしな。そんな隔離されたような世界でまあ、なんともバチあたりな」
「しかも相手はな女じゃねえ。男なんだと。マッタク変態ボーズが」
「おうう〜」
次元は受け入れがたいというように肩をすくめた。
「野郎にはそーゆー興味はわかねえな」
「いやん、次元ちゃん。やっぱり女がいいよねええ」
「ケッ、オメエと一緒にすんなよ」
「しかしよ…」
ルパンは大聖堂に背を向けて手すりにもたれ二本目の煙草に火をつけた。
「本当のヤマはそんなちっぽけなスキャンダルなんかじゃねえ。そのワルそうなツラ見てみなィ」
次元は口元に運びかけたグラスを止め、新聞の掲載写真に目をやった。
“聖職者の黒い罪”とやり玉に挙げられているのはローエンス大司教という人物。一見温和そうな印象の中にどこかどす黒いものを感じさせる、そんな目をした男だった。
「大司教なんてえのは表の顔。その実、裏じゃそこらのギャングなんざ問題にならねえほどの闇の手腕を振るってるらしい。聖職者ってのは、ここいらの国じゃあどうかすると国王よりも権力があるっていわれてるくらいだかんな…」
「…で?お前の狙いはなんだ、ルパン?」
「噂じゃ、この大司教様が恐ろしく腕の立つ人形師をお抱えにしてるって話だ」
「人形師?」
ルパンの目つきが少しずつ険しくなる。
「生きてる人間と寸分違わないほどのダミーを作れる人形師さ。大司教はその人形でアリバイを巧妙に作りあげていいとこ取りしたあと、用済みになった本人は病死や事故死に見せかけて消しちまう…てめえの手は汚さずに、だ。それまでは漠然とした噂だったんだが、その張本人がどうやらこの変態ボーズ」
「その凄腕人形師はなんだってボーズの言いなりなんだよ…何か弱みでも?」
「…クスリを打たれてるらしい」
次元は苦そうにグラスを空けた。
「なァる…逃げ出したくても逃げられねえってわけか。どこまでもあくどい大司教様だぜ。で、お前はそのおにんぎょさんの出来栄えを見てみたいとでも言うんだろ」
見透かされてルパンは小さく苦笑した。
「なァに、ほんの好奇心よ、好奇心」
「それにしても…よくこんな記事をスッパ抜けたもんだなあ。どいつがチクったんだ?」
新聞を読み返しながら次元がつぶやいた。
「ま、裏の世界じゃこいつにはそれなりに敵が多いしな。衝撃の真実を白日のもとに曝してやろうなんてえ奴にゃ、事欠かんだろうぜ」
ルパンは向き直ってもう一度大聖堂を眺めてみた。
「どんな人間の目をも欺けるというダミー…どういう代物か見てみてえじゃねえか」
見つめる先、壁画よりも彫刻よりも調度品よりも、ルパンの照準は今まさに絞られつつあった。

大聖堂の周囲には、配置済みの警察の車がひしめいていた。
けたたましくサイレンが鳴りライトが明滅する中、彼は敷地内の下見を大体消化していた。
だがそこは、銭形警部の長年の勘にあてられて自ら網にかかりに行ったかのように今捕り物の渦中にいるのであった。
「はァ、まったく面倒臭えな」
重厚な彫刻を幾重にも施した大聖堂。主門から礼拝堂へ続く廊下は優に500メートルはあった。その廊下の半透明の屋根を、闇にまぎれてルパンは走った。見れば、屋根の裾野に沿って自分をぴったりマークするトレンチコートがさっきから影のようについてくる。
「もういい加減やめときゃいいのにヨ。見てるほうが危なっかしいぜ、とっつあん…」
しばし呼吸を整えてから、ルパンは眼下に広がる人と光の群れを見た。
「ほーんじゃま、そろそろお暇しましょっかね」
ヒラリと身をかわしてルパンは屋根の向こう側に滑り降りる。ふう、と息をついたとき、軒下から馴染みの声が響きわたった。
「ワハハハハ、かかったなァ、ルパーン」
えっ?と見下ろすと、総勢で百数十人はいようかという部隊の陣頭指揮に立つ銭形警部が仁王立ちで高笑いしていた。先程表側に張っていたのとは別組織である。
「アレま、とっつあん…?ほいじゃ、さっきのは…」
てっきり銭形が追って来ているものと思っていたルパンは怪訝そうに振り返った。そこへ警部と同じコートを羽織った男がふうふう言いながら屋根を乗り越え、峰から顔を出した。
「はああ、さすがやね、身の軽さ。噂通りやん。銭さーん、やっぱきつかよオレには」
屋根の上のトレンチの男は笑った。
「のほほ…アラ、お友達」
「ワハハ、警察をなめるなよ、ルパン。藤崎は若いが見くびってると怪我すっぞォ」
トレンチの男、藤崎。初めての顔だった。見れば精悍そうな顔つきをしているというわけでなし、若いというのは銭形より若いという意味であって実年齢がというわけではなさそうであった。
「へええ、腕がお立ちになる?」
ルパンは面白そうに藤崎警部を見た。息が切れたらしい彼はどっこらしょという感じで呼吸を整えている。
「大きく出たモンだな。それじゃ、それがいったいどんなものか見せてもらおうでないの…そうしたらオレだって…」
不意に風が藤崎のトレンチを翻す。その裾がふわりと落ちたとき、彼の手に握られたルガーの銃口がまっすぐにこちらを見据えてルパンの言葉を遮った。ほんの数秒間の出来事だった。
「……!」
発砲されるかと思いきや、藤崎の左手には安全弁を抜いた手榴弾があった。ルパンはその刹那に、彼の中指と薬指が欠損しているのを見逃さなかった。
「マイトのプロか…事故で指を…」
表情も変えず藤崎が左手を振りかざす。数秒後に自分の足元が吹き飛ぶと予測したルパンは、屋根をスライディングして2時の方角へシフトした。ところが藤崎が投げたのは手榴弾に見せかけた煙幕だった。拍子抜けしたルパンは平衡感覚を失って、危うく屋根の樋を踏み外しそうになった。
「何だよォ、マイトじゃあねえのかー?ゴホゴホ」
「由緒ある大聖堂の屋根ばそうそうぶっ放すわけにもいかんめ?こら、一応重文やけんね」
藤崎の声に冷たいまでの余裕。顔が煙で見えなかった分、第一印象からはおよそかけ離れたものだった。
「最初から決まるっちゃ思っとらんけんナ。ずいぶん銭さんを手こずらしたごたあやけど、今度はもちっと面白かもんの見せちゃあ。名刺代わりにこれば持ってき」
風が煙を払拭すると、そこには4メートル先でルパンに銃の照準を絞る藤崎がいた。初発の印象とは明らかに別の顔の。引き金に力が入る瞬間、藤崎の瞳の奥にも紅い光がひとすじ走った。
ズガアアア…ン!
「く…っ!」
不意を突かれたといってよかった。
ルパンの頬のそばを熱いものがかすめる。のけぞった拍子に樋にかかっていたつま先が体重を支えきれなくなった。
「あらッ、あらッ、わああああ〜」
屋根から落ちながら、ルパンは手首のグラスワイヤーを投げて樋にひっかけ、振り子のように上体をひねって手近にあったフランス窓を蹴破った。窓の先は運良く空中回廊になっていた。ふうう、と息を吐いてルパンはいまいましそうに屋根を見上げた。
「ちぇーっ、やーってくれんじゃんかよ、フジサキさん。とっつあんにもよろしく言っといてくれな。名刺もらいっぱなしってのも悪いから、ちゃあんと借りは返すぜ」
踵を返してルパンは再び闇にまぎれていった。
半透明の屋根からルパンの後姿を見送りながら、藤崎は微笑を含んで大きく息をした。
「…んふ。よかやん」

「おうい、藤崎ィ」
ルパンの逃走先に網を張るように指示を出して警官隊を散らせた銭形警部が、屋根の下から声をかけた。
「いかん、いかんぞォ、早すぎる発砲は…」
「あは…手ごたえの知りたかったっちゃもん。挨拶代わりやけ、まあ、よかろ?」
「相変わらずだな…。そんなんだから大怪我するんだぞ、藤崎」
「なん言いようとかいな、銭さんも傷だらけやん。もう骨折したとこはいいとね?年やけん、無理はつまらんばい」
「やかましい」
無駄口をききながら、銭形は屋根から下りる藤崎の手許を切なげに見やった。
「はああ…屋根はきつかー。もうこんなこつしきらん。今度は平らな地面の走りたかねえ」
「…なあ、藤崎」
「ん」
「…まだそのままなのか。義指にはしてないのか…」
「あ、ああ、これ…」
藤崎は照れたように左の三本の指をかるく握りしめた。
「血の通っとらん指やらいらんもん。別になくても不自由のしとらんし。いいとって。もう過ぎたことやけ。そのうちゆっくり探すき」
「……」
屋根を下りる藤崎の背を見ながら、銭形は回想していた。
15年前の、あの悲惨な出来事を。

その年の春、署はささやかな慶事にざわめいていた。
複数の求婚者があったとも言われていた署内きってのマドンナ・交通課の瀬戸口律子を、風采の上がらないことでは周りに引けを取らない藤崎が射止めたというのだから無理もなかった。
頑固で武骨。絵に描いたような九州男児。そんな藤崎を知っている銭形は、三十路も半ばを過ぎた同僚の門出を心から喜んだ。
「りっちゃんは見る目があるぞ。あいつぁ口は悪いが信じられる男だ。どこがよかったのかは聞くまいが、幸せにナア」
「ありがとうございます、警部」
律子は幸せそうにほんのり頬を染めた。一方の藤崎も口下手ながら律子にはぞっこんで、訪れた遅い春に終始顔が緩みっぱなしだった。
結婚の一年後、律子は懐妊した。出産休暇をとり、いつものように病院へ検診に出かけたある日、悲劇は起きた。
検診を終えて横断歩道を渡っていた律子は、パトカーに追跡されて逃走する車にひき逃げされたのだった。持っていたバッグがミラーに引っかかって70メートルも引きずられた律子は全身打撲で即死、もうすぐ7ヶ月になろうかというお腹の子も助からなかった。
ある日降りかかってきた悪夢のような出来事。藤崎は失意のどん底へ突き落とされた。愛妻とまだ見ぬ我が子を突然失った悲しみは計り知れず、心身ともに変調をきたして一時休職した。後に復帰を果たすものの、魂を抜かれたようにたたずまいが変わった。酒量が増え、犯罪者らには冷徹になり、捜査も攻撃的になった。しかし彼はそれでも指輪を外さなかった。

爆発物処理のエキスパートだった藤崎はその三年後、サン・ルノウ大聖堂の中庭奥で仕事をすることになる。
内戦時に投下された不発弾がこともあろうに大聖堂の中庭で見つかったのだが、爆発物処理の専門家が現地の警察に存在しなかったため派遣されることになったのである。
しかしここでも不運が藤崎を襲う。
不発弾処理をしていた当日、藤崎は体調を崩しており普段よりも集中力が散漫だった。それが災いして不発弾の取扱いを誤り、不慮の暴発を引き起こしてしまったのだった。
11人が死傷したこの事故で、藤崎自身も左手の中指と薬指を失うという大怪我を負った。律子を亡くしてからもずっと外さなかった指輪は、この時混乱にまぎれて藤崎の元へは戻らなかった。

「お前は…今も指輪を探してるんだな…」
銭形は切なそうに息を吐いて最後の煙草に火をつけ、空箱を握り潰した。

「警部ッ、警部、どちらにおられますか」
「どうした」
「ルパンを発見しました。礼拝堂へ続く回廊を西へ逃走中であります」
「よし、全部隊、礼拝堂の周囲を固めろ。蟻の子一匹見逃すな、続けッ」
「はッ」
サーチライトが大聖堂の屋根に蠢く人影を捉えた。ルパンだ!
切り裂くライトは、疾風のように逃げるルパンを追う。銭形の視界もそれを捉えていた。
「…妙だな…」
長い回廊の屋根を走っているルパンを目で追いながら、しかし銭形は不思議な感覚にとらわれていた。
「オレはこの光景を知っている…」
なぜだろうか、この先起こるルパンの行動が銭形にはわかっていた。そうだ、お前はその先、屋根の切っ先に来たところで警官隊に発砲して、また走る。そして振り返ってオレを見ると、こしゃくに言葉を投げる…。
「なんで、わかるんだ…?」
銭形は気味の悪いほどの鮮明な記憶に思わず身震いした。記憶?ではこの光景は過去なのだろうか?理解が追いつかないまま、ただ目で追っていると、ルパンは上り詰めた屋根の先端近くでショルダーホルスターからワルサーを抜き、追っ手の警官隊に発砲した。
「わからん、なんでだ…」
銭形の小さなつぶやきを聞き取ったかのように、少し走った先でルパンは振り返りニッと歯をのぞかせた。
「ヨーォ、とっつあーん。年なんだからもうそれくらいにしときなさいよー。無理すっと腰に悪いぜェ。あーばよ〜」
銭形はただ呆然とルパンを見上げた。しかし、走り去ってゆくルパンを見ながらはっと我に返って不意に叫んだ。
「そっちへ行くな、ルパン!危なえ、危なえぞーッ」
銭形の突然の大声に、藤崎はびっくりして振り返った。
「銭さん…?」
「行くな、行くなーっ!」
「銭さん、どけんしたとな?なあ、どうしたとって!」
「藤崎、やつを止めろ。危なえ、あっちには板地雷が仕込んであるぞ、屋根にだ!大司教が仕掛けやがったんだよ!」
「えっ、地雷?」
藤崎が絶句した。
「やつは地雷を踏むぞ、早くしねえと…」
言いながら銭形はルパンを追い始めた。
「銭さん!」
藤崎も後を追う。
「止まれ、止まれルパン!危なえぞ、そっちへ行くな!」
銭形にはわかっていた。このあとルパンは板地雷を踏んで瀕死の重症を負い、屋根から転落する…。
「止まれ!」
銭形の声が切れ切れに耳に届いたか、ルパンは走りながらチラリとこちらを振り返った。右足がレッドゾーンを割り、屋根に触れた、その時。
ドウウウウ…ン!
激しい爆発とともに、ボディスーツの人影が炎に包まれて屋根から転がり落ちていった。なすすべもなくそれを見つめるしかなかった銭形の頭上に、爆発の衝撃で割れたガラスやレンガのかけらが降ってきた。
「ルパーン!!」

あらん限りの自分の叫び声で、銭形警部は目が覚めた。
ホテルの部屋。昨日から宿泊しているホテルの自分の部屋だった。天井のファンはカラカラと力なく、乾いた空気をかき回している。窓にはもう陽が高く、遮光カーテンの裏側を明るく照らしていた。
「……夢…か」
銭形は力が入って起こしかけた上体をどうとベッドに沈めた。
「…妙な夢だ…デ・ジャヴュとかいうやつかな」
ランニングの胸元を何度が引っかいたあと、枕もとの腕時計を見ておもむろにベッドを抜け、重いカーテンを引いた。窓からはさほど遠くない位置にサン・ルノウ大聖堂が見える。
「何の前兆だ…ルパン?」
愛用の煙草を切らしていた銭形は、近くの売店で初めての銘柄を買った。
慣れない外国産の煙草は葉が乾燥していてそしてひどく苦かった。煙草の名はsign(気配)とあった。

「さあてっと…どっからお邪魔しましょッかねえ」
ルパンはのんびりベッドを抜け出してから、昨日のバルコニーへ出て大聖堂を眺めてみた。
夜の間はきらびやかにライトアップされていた大聖堂も、太陽の下では夜とはまた違った重厚な表情を覗かせている。風雪に耐えた壁は、王族よりも長きを生きた時代の重みを無言のうちに見せつけていた。
「おお、明るい時に見ると、またたいそうな造りだぜ、こりゃ…」
朝食代わりのコーヒーを片手に、次元は起き抜けの欠伸をした。
「夜、キンキラキンキラしてたんは、ステンドグラスだあな…へーっ、そっれにしてもすげえ数」
キリキリとオペラグラスの倍率を上げながら、ルパンは「おゥ」と次元からコーヒーを受け取る。
「あの半透明の回廊。国王の結婚式にはあそこがバージンロードんなって…。奥の礼拝堂。あそこで年2回バチカンからお客さんをお迎えする…。中庭の「青の泉」。あの噴水はこの国で取れた大理石をふんだんに使って作られてる…価値としては相当なモンだ。大聖堂鐘台。この国の時間を告げるあの鐘…500年前に造られた代物で、一日8回時を告げるか…フーン…ん??」
オペラグラスを覗いたまま、身を乗り出すようにして大聖堂を観察するルパンに、次元は視線を投げた。
「どうした?ルパン」
「なんだァ、ありゃ…」
火のついていない煙草をくわえたまま次元はルパンの横に立つと、オペラグラスを受け取って聖堂の屋根のあたりを見てみた。
敷地の一番奥、礼拝堂のさらに向こう側にいくつもの別棟があったが、その中のひとつの屋根が妙にギラギラと太陽に反射していた。まるで誰かが鏡を反射させて居場所を知らせているかのようだった。その時の太陽の角度がたまたまもたらした偶然だった。
「いらっしゃいって言ってるぜ」
次元はニッと笑って、ペルメルに火をつけた。
「ああ、何かあるな…」
言いながらルパンはカップに口をつけた。
「アッチーッ!」

「騒々しい」 奥から声がした。
ルパンはカーテンを引いたままの部屋へ入る。
「もうお天道様はとっくに高いぜ、五右ヱ門」
ベッドには眉間にしわを寄せた五右ヱ門が横たわっていた。一重も乱れてだるそうに潤んだ目を閉じる。
「お前ェらしくもねえぜ、五右ヱ門。日ごろの無理が祟ったんじゃねえのか」
「なあ。よりによって刺身にあたるなんてなあ…こんな国まできて刺身食おうなんて言うからだよ」
「生ものは信用できるとこで食わなきゃナ」
「静かにしてくれ、おぬしたち」
五右ヱ門は迷惑そうにつぶやいた。
「まあ、昨日よりは幾分顔色戻ってっけど、もうしばらく寝てな。梅干持ってきててよかったなあ」
「ホラヨ」
次元がコーヒーカップに白湯を入れて渡す。ゆっくり上体を起こして五右ヱ門はカップを受け取った。
「…かたじけない」
「へ…え、ちょっとやつれてっと、何だか…」
色っぽい、と言いかけてルパンは口を閉ざした。不本意な状況にある孤高の剣士を、これ以上からかうのは大人気ない気がした。ひとまず、サン・ルノウ攻略は五右ヱ門抜きで考えなくてはならない。

五右ヱ門の部屋のドアを閉めてルパンは主寝室へ戻った。手にした新聞を改めて読み直してみて、紫煙をくゆらせる。
「でも、あそこへ潜り込むなァ結構骨折れるぜ?教会関係者に成りすまして潜り込むとかさ、そんなこってもしない限りは、こんな証拠つかめねえだろ…」
「確かになあ。あながちハッタリでもなさそうだしな…まあ、豪傑に違えねえ」
「いったいどいつが暴き出したってんだろうなあ。このオレ様を出し抜いてヨ」
「ふむ…出し抜く…出し抜くねえ。なあ、ルパン。これひょっとして…」
次元がそういいかけた時、部屋のドアをノックする音がした。
ふたりは真顔になって反射的に銃に指を伸ばす。装弾を確かめて、音もなくドアの両側に静かに潜んだ。
ノックの音。次元とアイコンタクトをとったルパンは、ドアノブを見据えて返事をした。
「ど〜ォぞォ」
ノブが回る。ドアが開いた瞬間、次元は来訪者に銃口を向けた。すると細い美しい指がゆっくりそれを制しながらふんわりと言葉を投げかけてきた。
「女を迎えるには、銃より花だと言われたことない?次元」
「不二子?」
「久しぶりね、ルパン」
見れば扉にはドキュメントスーツに身を包んだ不二子が、妖しく微笑みながら立っている。
ルパンと次元は顔を見合わせた。
「なーんだよ、お前。どうしたってのよ」
「おいおいおい、読めてきたぞ。またお前が一枚噛んでるんじゃないのか、不二子」
次元は深く溜息をついて、半ばあきらめ顔で言った。
「ま、人聞きの悪い」
「ってことは…もーしかしてこの記事すっぱ抜いたの、不二子チャン??」
「まあね…なかなかいい勘してるわよ」
「オイオイ…」
不二子は自分でショートグラスに少しだけジンを注いでソファに腰をおろす。
「あの大聖堂の主権を握る、ローエンス大司教。教会の承認なしには国王の婚姻さえ認められていないこの国の、言ってみれば、王様よりエライ人ってわけね。その大司教が司祭という表の顔のほかに、裏ではずいぶん悪どいことをしているらしいって噂が以前から流れていたの」
ルパンは口元で指を組み合わせ、次元は視線を外したまま帽子のかげから意識を向けている。
「地元のある新聞社が、何年もかけてその証拠をあげようと躍起になっていたそうよ。かなり細かいところまで裏づけが取れたらしいんだけど、最終的な決め手になる物的証拠が手に入らずにいたのよ。たぶん、大司教の手許にあるはずなんだけど。それで、私がそれを持ってきてあげるってことになったわけ」
「うわ、修道服の不二子ちゃんかァ。うわうわうわうわ〜」
不二子はジンのグラスに唇を寄せた。
「半月前のことよ…」

「これがサン・ルノウ大聖堂ね」
不二子はサングラスを少しずらして正門を見上げた。荘厳な彫刻に、時代の重みを感じさせるステンドグラス、ふんだんに使われた大理石。中へ入れば見るからにその価値を感じさせる調度品の数々が目を引いた。
天井近くに掲げられた壁画を見ながら不二子はうっかり、熱心に壁画の写真をとる男性とぶつかってしまった。男性の持っていたブリーフケースが落ち、書類が床に散らばる。
「まあ、ごめんなさい」
「あ、失敬…僕のほうこそ…つい夢中になって」
不二子が床の書類を拾うのを手伝いながらふと見ると、何か記事の原稿とおぼしき走り書きがいくつかあった。その中に「サン・ルノウ大聖堂の知られざる闇」と銘打った草案があった。
「これは…?」
「あ、いや、なんでもないから。気にしないでください」
彼はそそくさと書類をまとめてその場を立ち去ろうとした。
「待って」
不二子はすかさずその背中に声をかける。
「これも落し物ではなくって?」
カメラのレンズキャップを指先に玩びながら、不二子は彼の急ぎ足を止めた。
「…あ」
キャップを受け取ろうとする彼の手をついっとかわして、不二子は強く視線を絡ませた。
「あなた…記者?」
「そうだけど…」
「サン・ルノウに関する何か探りを入れているの?熱心に写真を撮っていたようだけど」
「…いえ、そんな僕は…何も」
不二子はキャップを手渡した。
「私もね…実はそうなのよ…」

大聖堂近くのカフェで紅茶のカップを片手に、不二子は手渡された名刺を見ていた。
紙片には“ソルトリック・プレス 記者 コルカ・レイノルド”とあった。
「まさか、僕らのほかにこのことを調べている人がいるなんて思わなかった…しかも外国人記者の君のような人が」
コルカは落ち着かない様子でコーヒーを飲む。
「私の社は小さいのよ。大きな事件をスクープできれば箔がつくしね。サン・ルノウの裏については以前からいろいろとささやかれていたし、やるとなれば記者としてもやりがいのある仕事だわ」
それを聞いてコルカは少しほっとしたような表情を見せた。
「実は、取材を進めてみて思った以上に根が深いことに気がついて…このまま自分ひとりでやれるだろうかって弱気になっていたところだったんだ…」
「外側から写真をとっているだけでは核心には近づけないわよ。連中が反論できない証拠をつかまない限りプロジェクトは失敗するわ。どうするつもり?」
「それなんだよ…大司教に近づける人物は教会関係者に限られているし…何か案はないかと考えているんだが」
「何だったら、私が一役買ってもいいのよ」
コルカは驚いたように不二子を見た。
「えっ、協力してくれるのか、君が?」
「もちろんよ。弱小新聞社にとっては千載一遇のチャンスだもの」
「…何が狙いなんだい?君の方は」
コルカは少し怪訝そうに不二子を見た。
「私も特ダネをたたき出して社運を立て直したいだけよ。本国へ帰ればそれが証明できるから。その代わり私を雇ってくれたなら、この国での手柄はソルトリック・プレスに全部持たせてもいいわ。どう?悪くない取引でしょ」
「…有能な記者だね」
コルカは少し笑って鞄から小切手を取り出すと、サラサラと書き付けて示した。
不二子が額面に微笑む。
「…取引成立だな」
「よろしくね、コルカ。仕事には手を抜かないつもりよ」

「フーン…で、その新聞社とやらからいくらでその仕事請け負った?」
別に知りたかねえが…と滲ませながら次元が聞いた。
「三千万」
「ケッ、悪どいのはどっちだよ」
次元は帽子を被りなおして振り返った。
「で?今日はオレたちに何の用だ?」
「肝心のデータがどうしても見つからないのよ。おそらく大司教がかなり機密な場所に隠してるんだと思うわ。新聞は先に事実を暴露して、煽りをかけようって魂胆なの。そうすれば、いやでもデータを守ろうと何らかの行動に出るはずでしょ。そこを押さえるというわけよ。今夜何とか大司教に近づくから、私を援護してほしいの」
「おおおお、いいってことよ。そんな危ねえ仕事なら、初めッからオレに任せりゃいいのにィ」
ルパンは不二子の太腿へついついっと指を這わせた。不二子はニッコリ微笑んでその手をつねり上げた。
「イテテテテテ」
「ありがと、ルパン。でもね、最初に言っとくけど報酬の山分けは考えてないのよ。ごめんなさい」
「やめとけ、やめとけ!」
傍で聞いていた次元が痺れを切らして吐き捨てた。
「いいかげんにしろよ、不二子。いくらなんでも虫がよすぎるぜ。オレたちはお前の便利屋じゃねえや」
「まあまあまあまあ、次元チャン」
ルパンがむくれる次元を制した。
「いいじゃねえのよ。どっちみちプランが煮詰まってたんだかんな。でさ、オレたちも待ち時間のうちに一仕事済ませちまおうぜ」
「あ…一仕事?」
「そおよ、さっきチェックしたろ?あのやたら眩しい屋根が呼んでる感じがするぜ」



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