彼女は渚で貝殻を売る



 五感のうち、一番初めに機能したのは聴覚だった。
 切れ切れに海鳥の声が降り、打ち寄せる波の音が遠く近く耳朶を打つ。
 季節と時間の感覚がつかめなかった。
 指の間に遊ぶ白砂。気がつくとルパンはそんなものを見ていた。
「…海…?」
 からだは気だるさを引きずっていたが、暑くも寒くもなかった。
「…いつからオレはここに…」
 思い出せなかった。今の今まで自分がしていたことも、ここにいるわけも。

 海にはゆるく霧が漂っていた。
 ルパンはゆっくり起き上がって砂を払い落とした。自分が裸足でいることに、その時になって初めて気づく。
 気配を感じて顔をあげると、霧の視界の中に人影があった。
「いらっしゃい。貝殻はいかが」
 女だった。薄霧のせいで表情まではよくわからなかったが、微笑んでいるらしかった。
 淡い色彩が支配する霧の渚に、溶けてしまいそうにゆるやかな紅のドレス。美しかった。ルパンは惹かれるように女の方へ歩み寄る。
「ルパンさんね」
「…ここは…あんたは…」
「海ですよ、見てのとおり。私はヘリオス」
「…ヘリオス…」
 心当たりのない名だった。でもどこかであったことがあるような気もした。よく知っている人物とまつげの数が2、3本違っている、というような。
「どうぞ、お好きなのを」
 ヘリオスは、クロスのかかる小さなテーブルに並べられた貝殻を指し示した。
 貝殻はみな白かったが微妙に形状が違っていて、ルパンは思わず形の面白さに惹かれ見比べた。扇形の貝殻を選び手にすると、その輪郭がわずかにふるえた。そしてヘリオスの背後、打ち寄せる波の淵から一人の男がゆらりと現れた。
 男はいつぞやの雪の夜にルパンを鉄橋に追い詰めた殺し屋だった。両の眼は復讐に燃え、錆びついた鎖を断ち切らんばかりの逞しい上腕は、獲物を射程内に捕らえた満足感にピクピクとうごめいていた。ただ、彼の姿はスクリーンを通してみているようなはかなさがあった。
 二度目の波が打ち寄せると、男の姿は水泡に砕けた。そして連れ去られるかのようにヘリオスの姿も風に溶けた。
 ルパンの手にももう貝殻はなかった。
 幻か…?ルパンは貝殻を握っていたはずの指を動かしてみた。確かに指の間には何もなかった。だが、霧の渚に目を凝らせば、夢の続きのように人影が点在している。ヘリオスの分身のような女たちだった。
「いらっしゃい…貝殻はいかが」
 女たちはまたルパンに微笑む。ルパンは彼女たちの名を一人ずつ聞いてみた。
 黄色いドレスのソニック。紫のアレックス。橙のドリー。青のニムダ。緑のロキシー。藍のレオン。
 貝殻を手にするそのたびに、彼女たちの背後から波を孕んで、ルパンを仕留め損ねた男たちが現れては消えていった。殺し屋、科学者、詐欺師、賞金稼ぎ、技師、傭兵………

 何度波の音を聞いたことだろう。
 ルパンは最後らしい女の前に立った。らしいというのは、その時点で彼女の他に人影が見当たらなかったからだった。
「いらっしゃい…貝殻はいかが」
「聞かせてくれ…名前を」
「もう誰も来ないわ」
「……?」
「あなたが会っていたのは私一人よ。だからもう誰も来ないわ…」
 女のドレスは白かった。手にしてきた貝殻のように白かった。
「私の名はライヤ。嘘つき、ってことよ」

 ライヤがそういうと、今までの女たちがルパンを包み込むように舞い降りてきた。七色のドレスは流れるように剥がれ落ちて一枚の帯になり、霧の海にふわりと浮かんで虹になった。
 虹を見つめるルパンの手に、ライヤは指を絡ませてきた。
「もうすぐ満ち潮よ…行きましょう…」
 ライヤに手を引かれて何歩か歩みだしたルパンは、突然目を見開いて指を離した。
「何の声だ…?」
 ライヤはゆっくりとルパンを振り返る。
「何も聞こえないわ…波の音のほかは」
「いや…聞こえた…波の音の間から…」
 ルパンは上体をひねって後ろを見た。

 気のせいではなかった。波の間に映った男たちとは明らかに別の輪郭が見える。
 黒い帽子のつば。袴の裾。揺れる後れ毛。鈍い銀に光る金属の輪。
 ライヤの手がまたルパンを捉えた。凄まじい力だった。
「さあ…来るのよ」

「離せ…手を離せ!」
 反射的にからだが動いた。ルパンは力づくで指を振り払う。
 ライヤが一瞬悲しげな目をした。次の刹那に彼女のからだは細かい水の粒子となってはじけ、空に散った。
 粒子が涙の雨のように降り注ぐ。ルパンを襲う突然の眩暈。霧の海の空が刺すような蒼に染まったかと思うと、割れた空から一条の光が差し込んだ。


「ルパン、ルパン!」
 その声を感じて、ルパンの全身にドッと血が通いだした。
「何、気がついたのかッ」
 視界のピントが徐々に合ってきた。次元が今にも崩れ落ちそうな顔で、自分を覗き込んでいるのがわかった。駆けつけた五右ヱ門の目元もやつれ切っている。
「ルパン…!」
 不二子は前髪が乱れるのも気にせず、ルパンの首筋に抱きついた。
「よかったわ…ああ、よかったわ」
 人目もはばからず泣きじゃくる不二子の髪を撫でてルパンは少し笑った。
「次元…五右ヱ門、久しぶりだなァ」
「馬鹿野郎、とんでもねえ心配させやがって。おめえはな、この三週間ばっか昏睡状態だったんだぞ」
「おぬしは車から脱出して崖下に飛び降りたとき、散弾銃で狙撃されたのだ…頭と心臓に深傷を負って仮死状態で生死をさまよったというのにまったく悪運の強い男よ」
 次元と五右ヱ門はあきれたように続けた。不二子は涙で口も聞けない。
「なあんだよ…心配してくれってたんかい、不二子?」
 不二子は悔しさにルパンの頬をつねった。
「イテテテテ、意識が戻ったばっかりだってのによ、ったく」
 そのとき、ガチャリと病室のドアが開いて、銭形警部がしおしおと入ってきた。
「あ!」
 銭形は手にしていた小さなカスミソウのブーケを思わず取り落とす。

「ルパン!貴様、気がついたのかーっ」
 小躍りせんばかりの銭形に苦笑しながらも、ルパンは悪戯っぽい目で相槌を打った。
「よォ、とっつあん。黄泉帰っちまったみたいよ、オレ。心配してたの?」
「まあ、その、少しはな。少しだけはな」
 銭形は言葉を詰まらせた。
「この場でお前をふんじばってやるところだが、わしァ、これから出かけなくてはならんのでな」
「あらまァ、どちらへ?」
「お前を狙撃したフランゴが別件でお尋ね者になっとってな、張り込みに行くところだ」
「おーや、そらまたご苦労さんですこと」
「いいか、貴様妙な気を起こさずにおとなしく寝てろ。まあその状況じゃあ起きるに起きられないだろうがな。面倒な仕事を片付けたらまっさきに逮捕してやるから肝に銘じとけ」
 自動血圧計と点滴二本とギプスでがんじがらめのルパンは、銭形のほんの少し上ずる声に目を閉じた。
「ハイハイ。無理すんじゃねえよ、とっつあん」

 病室を出る銭形を見送ったあと床のブーケを拾い上げて、次元はぼそりとつぶやいた。
「何しにきたんだ?」
「見舞いであろう」
 不二子にリンゴをむいてくれとせがむルパンを背にして、五右ヱ門もまたぼそりとつぶやいた。

She sells seashells by the seashore…」

「なあに?」
 リンゴをむく手を止めて、不二子が振り返った。
「ああ、舌かんでシニソ。何ァんでもねえよッ」
 ルパンは可笑しくてたまらないというふうに、唯一自由になる足の指をヒクヒクさせた。

 


Iwritten by マノン・レスコー
生死をさまようルパンの、行くか戻るかの静かな「闘」を描いてみました。
三途の川ならぬ「海」へのいざないを虹色の衣の使者に託しました。
昔、虹は8色とされていて今は忘れられた色が「白」であった、との童話を読んだことがあり、
死の象徴として「白」をキーワードに置いたものです。
深い海の底、死への甘い誘惑ということで、
乙女たちの名はコンピューターウイルスから命名しました。
この「白」という淡くはかないイメージに、
キリコさんがジャストフィットのイラストをつけてくださいました。
構想当初からアイディアバシバシ、そのみずみずしい感性に、大いに触発されました。
楽しかったです。どうもありがとうございましたm(--)m

illustration 陽山キリコ
えーっと挿絵担当しましたキリコと申します。
不束者でしたがマノンさんの申し出で参加させていただくことと相成りましたです。
いろいろとアイデアとかを出し合ったりしてとても楽しかったです。
拙い絵ですがマノンさんの世界の掛け橋に慣れれば幸いです。
コラボどうもありがとうございました。

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