― 漫画「ルパン三世」からアニメ「ルパン三世」の誕生

池本 原作の特徴と言えば、以前大塚さんは「頭身が長いので画面に収めるのに苦労した」といったような事を仰っていた記憶があるのですが、それまでの漫画映画の3頭身キャラからルパンのような8頭身キャラへと移行したことでレイアウト等でやはり苦労があったんでしょうか。画面構成以前にキャラクターの演技法そのものにも変化があったとか。
大塚 いや、それはないですね。フルサイズにした時6頭身、8頭身では画面の中での占有率が少なくなって、なにか寂しくなってしまうので、アニメでは伝統的に4頭身程度になっていたのですが、違って来たのは多分「劇画」の登場からでしょうね。アニメーションでは絵描きが何処かで実写に憧れているところがあって、ほっておくと限りなく実写的になってゆきます。その反省が高畑さんをして『おもひでぽろぽろ』(※28)から『山田くん』(※29)へと揺れたんじゃないでしょうか。
池本 高畑さんがリアル志向を突き詰めていった結果、揺り返しとして『山田くん』に着地したのは興味深い現象だと感じます。押井さん(※30)を筆頭としたリアル路線が何処へ行き着くのかも興味を惹くところで、作品の説得力のための美術の緻密化にキャラなどの他の要素を合わせるというのがリアル路線の骨子なんでしょうが、逆に背景を他のレベルに合わせても成立するわけで。要は作品内でのリアリティのレベルを統一すればいいだろうと。作品の内容にも拠るんでしょうが、少なくとも『ルパン』は説得力を持たせるためのリアリティと漫画的な飛躍との両極が不可欠でしょうし、僕はそういった作品が好きです。
  原作は人間を描くことやドラマを語る事には殆ど無関心でトリックやアクションが主軸になっている乾いた世界の、ある種ファンタジーでありカリカチュアだと思うんですが、旧ルパンはそこにキャラクターの生活感と実証主義といったリアリティを持ち込むことによって振り幅の大きい世界観を確立したと思うんです。かつての優れた原作つきアニメというのは原作をそのまんまなぞるのでなくて原作を再構築するといった事が積極的にせよ消極的にせよありましたけど旧ルパンによって大塚さんがプラスした要素として御自身では何を挙げますでしょうか。「プラス」と言うとあれですが大塚康生式のルパン解釈としては何が肝としてあったのでしょうか。
大塚 原作の『ルパン』はテレビ化(30分枠のストーリーで一話完結)となると、相当のアダプトが必要でした。コマ切れのモンキーさん(※31)の原作の中からヒントになるドラマを拾って、いろいろと付け加えることによって成立させるしかありません。実は旧作23本でこれ以上「原作から拾える話はない」といった状態になっていて、打ち切りを密かに喜んでいたというのが実情です。パートII以降のコンセプトの立て方は100%日本テレビの主導によって行われ、局側は
1、5人が出るカット数を平均して同じようにする。
2、ルパンは赤い背広とする。
3、各話ごとに世界の都市を舞台にしたご当地番組とする。
を憲法としてシナリオが発注され、局の狙い通り視聴率はあがり続けて、安定番組として認められるようになっていったことは御承知の通りです。が、その時点で私にとってはルパンはただの仕事としてやるだけのものになってしまいました。私が『旧』でモンキーさんの原作の上にうわ積みしたのは、御指摘のような生活感や道具類に実物を出すことだったと思います。両方とも中途半端だったかもしれませんが、あとに続く人たちは(気の毒ですが)「それから出発するしかなかった」のではないでしょうか。  
池本 「ただの仕事としてやるだけのものになってしまった」との事ですが、新ルパンのテレコム作画回はおよそテレビシリーズとは思えない画面の充実ぶりでした。キャラクターが「そこに」「生きている」という感じで。特に次元などに生活感が溢れていて。旧ルパンをさらに安定させた趣きでまさに名人芸!と言いたいとこなんですが、実際はテレコムの新人を特訓する場だったそうで…後でそれを知ってひどく驚きました。それと、旧ルパンの作画を考える上で画期的だった事として「崩す」というキーワードがあると思うんですが…顔の造作や姿勢などを微妙に崩してシンメトリー性を排除するといった形で。これが生っぽさの秘密としてあると。その辺で御自分として上手く行ったなぁという点とその後に課題を残した部分などがありましたら。
大塚 崩す、という点の指摘は「ちゃんと見て頂いている」という事で有り難いです。というのは普通、人は絵を描く時、自然にシンメトリーになってゆくもので、形を整えてしまう無意識の機能が働くものです。例えば画面いっぱいに「雪を描いて下さい」と言うと、小さな雪の粒を描きますね。そうすると描いているうちに何時の間にか粒と粒の間隔が規則的に並んでしまうもので、粒がやや集まっているところ、乱れて空いてしまっているところなどを巧みに配分した画面だと不思議に「降る雪」の雰囲気が出ます。教えもしないのに自然にそうした感じが出せる人が時々います。日本の美のなかには昔から生け花や着物のデザインなどに「不整形」(わざと乱す)要素があって、いろいろな芸術でそれが生きています。反対に左右対称のデザインには「権威」「荘厳」「安定」といった要素が含まれていて人はそれにひれ伏すものです。アニメーションでは、いまでも多くのキャラクター表に描かれるキャラクターは足をやや拡げて、顔も身体も真直ぐに前に向き、両手に力を入れてスックと立つ姿が定型化されています。『ガンダム』(※32)『巨人の星』(※33)モデル・シート(※34)を想像して頂けるとわかるでしょう。あれが主流だと考えて頂くと、ルパンは原作からして「非主流」です。
非主流こそルパンに似合うと感じたものです。片足に重心をかけて、肩もどちらかが下がっていて、リラックスしているようなバランスを崩したものを提示することによって体制側の人間ではないことを示唆したつもりです。別にあれが初めてと言うわけではありませんが、そうした情緒を持つキャラクター表を作って配付し、説明会を何度か開いて原画家たちに、この企画が期待するキャラクターの性格をわかってもらえるようにしました。これは非常に効果的でした。若かった青木、
近藤(※35)といった人たちがすぐに反応して実にいいポーズを描いていました。「不整形」は『風のフジ丸』(※36)で実験してみて以来、私の作画上の信条となっています。
池本 僕も日本人なので不整形が好きでいながら、はっきりした自覚が無かったんですが、大塚さんの理論と実践を知って猛烈に感銘を受けたんです。しかし何故日本人はかくも不整形を好むのでしょう?世界中どこへ行っても大概はシンメトリーなものを好む特質がベースになってるように思うのですが。また、日本人は古くから不整形を好む民族である、とは言いながら、アニメにおいては「非主流」だったわけで、その辺で不思議な現象だなぁとも思ったりして。作ってる側も喜んで見てる側もアウトローといったところでしょうか…と言うと随分聞こえがいいですけども。
サメダ 「不整形」と言えば実際は人間の顔だって左右同じじゃないのに、いざ描こうとすると両目の高さを同じにしようと躍起になったり無意識に「整えよう」という風にしてしまうもので。逆に「不整形」にしようと思い立った場合、意識しなければバランス自体崩しかねないものだと思うんです。不整形のものをまた修正する立場の大塚さんも、それは大変な作業だったのではと推測するのですがいかがでしょう?
大塚 「不整形」と「下手」とでは大変な違いがあります。意識してバランスを崩すのはデザインの基本でもありますが、これは華道や盆栽の師匠なんかと話した方が早道です。ところが、絵を崩すコツは?と聞かれると説明出来ないことが多いのです。なにしろアニメは絵画ですから、リアル志向の『人狼』(※37)から崩れっぱなしの『しんちゃん』まですごく幅があります。ルパンは『しんちゃん』までは行けませんが、そういった気分は持ち続けたいと思っていました。日本の不整形の美学は比較文化論に属していて、その筋の先生に聞いてみたいことですが、やっぱり崩すのは町人文化で、シンメトリーになるのは権力者の好みだろうと思います。
サメダ ルパンのように不整形に崩したスタイルが上手くキャラクターともリンクした場合、ものすごいリアリティとして迫ってくるのではないのかと感じています。お二人のこの話題で旧ルに感じていた不思議な「リアル」さの一端を垣間見た感じがします。

作画に関するお話しが深まってきたところで、ここでまたお葉書を一枚紹介させて下さい。ルパンの髪形の解釈について…こんな質問をいただいています。

実は長年の間、どーしても聞きたかったのが、この髪型です。この前のワンフェス(※38)でお会いした時に絶対に聞こうと思っていたのですが、大塚さんご本人を目の前にして、すっかり真っ白になってしまい聞きそびれてしまいました。もし、この機会にお答えいただければ、とても嬉しいです。ルパンの髪型については、スポーツ刈り、オールバック、リーゼントなど人それぞれで解釈が異なっているのは周知ですが、大塚さん的解釈はいかがでしょうか。
モンキー・パンチさんの原作では、初期の頃は坊主頭のやや伸びかけっぽい感じでしたが、途中からは坊主なのかオールバックなのかわからなくなってますよね。大塚さんの描かれるルパンの前髪のギザギザはは、前髪をアップした生え際のギザギザなのか、それとも前髪を垂らした状態での毛先なのか、いずれなのでしょう。それぞれの解釈があっていいのでは?と言う回答はなし(笑)で、大塚さんの解釈をお教えください。

関東在住 ラジオネーム・Crystalmanさん

大塚 モンキーさんの原作には多少迷いがあったようですが、私は単純にスポーツ刈りだと考えてきました。それ以上深く追求しないで下さい。
サメダ はい、分かりました(笑)
池本 キャラ造型に関してなんですが、次元は原作でもパイロットフィルムでも割に目を隠してないと言うか…旧ルパンで「基本的に目を隠す次元」というスタイルが徹底、確立されたのではないかというのがあって。顔の中でもっとも重要なパーツを隠しても演技が成立する…どころか隠すことによって次元というキャラの魅力が深まったような。こういったアイデアはどうやって発想されたのでしょうか?
大塚 あれは簡単にいうとアメコミによく出て来る描き方で、西部劇の漫画などにしばしば出て来ますね。強い日ざしをさけるためテンガロン・ハットを深くかぶったチャールズ・ブロンソン(※39)を思い出して頂くと分かりやすいでしょう。キャラクターの差別化のために次元専用にしましたが、モンキーさんの原作にはゲスト・キャラクター、特に悪役に多かったと記憶しています。
サメダ もうひとつこんな質問も届いております。
フィアット(※40)を描く上で特に注意する点は?

関東在住 ラジオネーム・Hさん

フィアットは独特のフォルムをしていますよね。私も曲がりなりにも描いてみたりするのですが、やはり出来れば実物を前に…と言うのが早道でしょうか。旧ルを見ていて何が感動するかって、画面にあるものがそのまま実在するというところがあると思います。そこだけがやけにリアルというわけではなく、アニメーションのルパンワールドに溶け込んでまさに生きている感じを受けます。だから、キャラクターと共にフィアットやワルサー(※41)に対してもファンは熱い愛着を感じているんですよね。特にフィアットは、大塚さんのおっしゃるように「そのまま」で。でも単なる車ではない、まるで生き物のように走り回る姿は、ルパン一家の一員に見えます。ルパンでは実在した車がドンドン登場したアニメでしたが、それも大塚さんありきの計画だったのですね。最近ではメカ担当・銃器担当など分業もされているようですが、当時はアニメーターの嗜好も実益を兼ねての武器だった、ということでしょうか。

大塚 自動車を上手に描くにはいろいろなアングルでスケッチするしかありません。特に丸っこい形は本物を見るか、写真から模写するしか術がないのです。そのころ私はフィアット500に乗って通勤していましたから、作画室の窓の前に車を停めて、見ながら描いていましたが、アングルが変わると途端にうまく描けなくて、外へ出てスケッチして来たものです。その頃のイタリアの自動車雑誌には毎号フィアット500の写真や漫画が沢山載っていましたから参考にしましたが、上手な人はいませんでした。誇張しすぎて日本人には違和感があったと思います。フィアット500はそのまま描いても充分コミカルですから、素直に本物通りに描いています。
ついでに言うと、アニメ界、特にアニメーターには車に詳しい人は滅多にいませんから旧ルパン、カリオストロ、パートIIテレコム担当分に出て来る車は私が選んでいます。例外は旧の初期、青木さんが車に詳しいし、巧いことがわかって、彼に決めて貰ったものもあります。
トライアンフTR-4(※42)ルノー・アルピーヌ(※43)その他です。
サメダ やはり描きこなすまで行きつくには、本物をトコトン描き込むしかないのですね。
しかしフィアットやSSKを目の前にして描く機会がどれだけあるんでしょう、見つけたら追いかけねば・・・(笑)お答えいただきありがとうございます(^^)

それでは、引き続き旧ルのお話を・・・。

池本 旧ルパンが本放送時に低視聴率だったのは有名ですが、どうも腑に落ちない部分があって。視聴率なんて殆どアテに出来ない物ですけど。それはそれとして、たかだかその数年後の再放送に当時クソガキだった僕らが飛びついたわけで、よく「時代を先取りしすぎた」という言い回しがあって実際それはまぁそうなんですけど、それほどに「理解されない」作品だったとは自分の経験を踏まえて疑問があるんです。単に本放送時は親が見せなかったものが親の目の届き辛い夕方に再放送されたことで子供達が飛びついたというのが真相だろうと睨んでるんですけども。子供はそうだったとして大人はどうだったのでしょう?例えばアニメ業界内で話題騒然になったりとかそういった事は無かったのでしょうか。
大塚 その頃、世間はスポ根もの(※44)で盛り上がっていましたし、原作もまだよく知られていなかったことから視聴率低迷に終わりましたが、アニメ界では密かに話題になっていました。やりたいというアニメーターも演出も沢山出て来ましたし、解釈を巡って「ああじゃないんだよなぁ、俺がやったらもっと面白くなったのに」と言い出す人もひきもきらずで、その多くが冗談の通じない面白みのない人だったり、慌ててモンキーさんの原作を見た人もいたりして苦笑したのを憶えています。「俺のバージョンをやらせてくれ」と言った人にはのち、ほとんど全員にその機会が与えられています。 
サメダ なんだか「俺のバージョン」というのがルパンらしい逸話な感じがしますね(^^)
池本 旧ルパン後半の演出はAプロ(※45)演出グループという名義で宮崎さんと高畑さん(※46)が担当したとの事ですが、宮崎さんに関してはコンテも残ってますし、それ以前に本編を見れば宮崎テイストというのは濃厚なんですが、高畑さんに関しては、単に僕が注意力不足なだけかも知れませんが、今ひとつ判然としない部分がありまして…高畑さんは具体的にどのような形で関わっていたのでしょうか。
大塚 これはわかりにくいでしょうね。高畑さんは論理的な発想でものを見ますし、勉強家ですからキチンと原作も、出来て来たシナリオも読んで辻褄のあわないところを整理してくれています。しかし、多くのシナリオは大隅さん(※47)の承認を得て、すでにコンテマンに渡っていたり、すでに作画に入っていましたから、路線変更は時間的に無理でした。アンニュイ(倦怠感)といった大人向きで、一寸分かりにくい話を、子供にもわかるように直すのは難しいこともあって、二人ははじめ断っていましたが、放映に穴があくという非常事態とあって、全話を読み返し再検討することになり、話数順は大幅に変更され、できるものだけ手を入れてあります。どうにもならないと匙を投げた話にアイヌのじいさんのエピソード(※48)などがあります。宮崎さんはコンテの大幅変更を手伝ってくれました。

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