『風姿火伝』
1
初夏の日差しは柔らかなようでいて、存外目を焼くような鋭さがある。
空を仰いで、その眩しさに目を細めた巽は、やがてため息と共にうんざりとした面持ちで遥か前方を歩く人物を見上げた。両脇に抱えた荷物は、それぞれ軽く十キロはあろうか。鈍行列車に乗っての旅は、肩や腕に実際以上の重みを感じさせていた。
ちょうど世間一般でGWと呼ばれる時期ではあったが、何しろ自ら進んで転属した以上、おいそれと文句も言えない。
三百段あるからな、とその人物はあっさり言ってのけると、巽と同じ荷物をひょいと抱え上げ、足取りも軽くその階段を上っていった。
確か自分より一回り以上は上だったよな、と呆れるやら感心するやらである。
――銭形幸一。
これが彼の名である。ちなみにこの春から、巽の上司になった。――正確には、巽が彼の部下になった、と言うべきだろうか。
銭形は海外でもその名が通じる、数少ない日本人警察官だ。何しろ、かのルパン三世を追って世界中を駆けずり回っているのだから、アメリカやフランス、イギリスなどその仕事数の多い地域では「また来たのかい」と苦笑されることもしばしばある。
それを嫌味と取るか挨拶と取るかは人それぞれだが、銭形に限っては額面通り受け取り、「ああ、これで最後にしてやる」と必ず返すことにしている。社交辞令ではない。本気でそう思っているのだ。
話は昨年にまで遡る。ルパン三世の相棒・次元大介の取り調べという、一介の刑事にはまず巡ってこないチャンスに恵まれた。それは貴重な経験であったが、次元にとってこの年若い刑事は相手ではなく、巽を散々にからかった挙句、ルパンの自首と引き換えに釈放されてしまった。ちなみにそれを決断したのが、銭形であった。
昨今の若者にしてはなかなか熱血漢であった彼は、次元の態度に大変な憤りを感じ、必ずや捕えてやると固く決意し、銭形突撃隊への異動願いを出したのである。周りの人間は一応引き止めたが、さして重宝されていたわけでもない彼の希望は、思ったよりあっさりと受理された。
だが、突撃隊といえども常に銭形と共に行動しているわけではない。あの大人数が移動するとなればそれなりに金もかかるし、何より食費が馬鹿にならない。従って、ルパン発見の報を聞きつけた銭形が現地へ飛び、必要と判断したときだけ日本から呼び寄せるのである。無論、現地警察の都合やルパンの仕事まで間がないことも多いので、結局待機のまま終わることも多い。
巽がそれを知ったのは配属直後。それから約一ヶ月。三日前に日本へ戻ってきた銭形は、新しい部下の顔を見ても以前に会ったことがあると思い出せなかったようだ。
ただ、上から下までじろりと観察し、服の上から巽の身体を触りまくり、驚いて固まっているところへ彼の経歴を一読して後、
「お前、GWはどうなってる?」
「どうと言われましても……」
前半に休暇を取って、普通に休むつもりだった。一応、彼女なんてものもいるので、デートも予定に入っている。
が。
「俺と一緒に来い」
「……は?」
「お前の体型じゃ、うちでやってくのはどうもな。腕に覚えがあるわけじゃあるまい?」
中学高校と野球をやっていたので体力に自信はあるが、生憎警察内の柔道大会でまともに勝った例のない巽である。そういえば、他の隊員はほとんど機動隊出身だったりして、皆いい体格をしている。アメフトでもやらせたらいいかも、とこっそり思っていた。
「うちの仕事は生半可なことじゃ勤まらねぇ。何でお前みたいな、なよっちいのが配属されてきたんだか」
なよっちいと言われて、さすがに巽もカチンと来た。試してもいないのになぜ分かるのかと問うと、
「だから一緒に来いと言っとるんだ」
銭形は笑った。悪気はないらしい。
「お前がどれほど出来るのか、たっぷりと見極めてやるよ」
むっとしたままだった巽は、考える間もなく「分かりました」と答えてしまった。
早まったと気付いたのは、三日後の朝にな、と銭形が姿を消した直後のこと。
突撃隊のメンバーである八角警部補が丸太ほどもあるその腕を巽の首に回し、
「これでお前もフラレ連中の仲間入りだなァ」
と言ったからである。
きょとんとしている巽に、彼は続けた。
「ただでさえ警察官は時間にルーズで恋人が出来にくい。特にうちは、警部の要請があればいつでもどこへでも飛ばなきゃならん。俺なんぞも、家族を泣かせっぱなしさ。お前もいい相手が見つかるまで、長い独身生活を覚悟しとけよ?」
言われて、周りを見た巽は絶句した。
突撃隊の多くの者の指に、一つの飾りもないことに気がついたのである……。
恋人の罵声を耳に残したまま巽が連れてこられたのは、築百年は越えようかという建物だった。一見寺のようにも見えるが、息を切らして階段を上りきったところで、気合の入った声が中から飛び出してきた。見れば、すっかり風化した木の板に「天羽道場」と書かれているのが、辛うじて読み取れる。
それにしても、銭形がけろりとしているのが憎々しい。畜生、俺の方が若いのに、と情けなくなってくる。
「ここは、その筋じゃちったあ知られた道場でな。剣術、柔術、空手、合気道何でもござれだ。流派もこだわらん。腕に覚えがある者、或いはより高みを目差す者が集う場所だ。ここで三日間耐え切れれば、まあ見込みはあるってこった」
にやりとし、
「どうだ? 帰るなら、今の内だぞ」
「帰りません! 自分は、望んで突撃隊に配属されたのです! 帰りません!」
「いい覚悟だ」
ぽん、と背中を叩いて銭形はからからと笑った。
「道場主に挨拶するから、荷物を置いてきな。ああ、俺のもな」
四十キロの荷物を担いで指示された部屋にそれを置くと、後はもうへたりこんで眠りたいほどだった。これほどの疲労感は、野球少年だった頃にも感じたことがない。だが、今は休んでいる場合ではない。
立ち上がりかけ、ふと思いついて荷を開けてみた。たった三日間の合宿で、なぜこれほど荷物が必要なのかと思ったからだ。中には、山のようなTシャツと食料――ただしカップラーメン――そして、古い雑誌が一番奥に何冊も詰めてあった。どう考えても、重石代わりに違いない。
巽は凄まじい脱力感に襲われた。それでも辛うじて銭形の元に戻ると、「遅せぇな」と彼は一言呟き、背中を向けた。
段々、むかっ腹が立ってくる。
警部は素晴らしい方だよ、とは突撃隊で聞かされた言葉である。それ以前では、あの男は変人だ、というのが銭形に関する批評だった。家族も顧みず、出世も捨て、ただひたすらにルパン三世を追い続けるその姿は、確かに周りからは奇異に映ることだろう。
だが巽は、そういう人間を嫌いではなかった。警察官の鑑とすら思った。
それが、どういうことだろう? これでは単に、部下苛めをしているようにしか思えない。
案内役の後に続く銭形の背を見つめながら、巽は首を傾げた。次元大介を逮捕するには突撃隊に入るのが近道なのは確かだが、ひょっとして銭形の部下になったこと自体、間違いだったのだろうか。
通された部屋は、奥ゆかしい日本庭園の見える和室だった。白い髭の老人が座っている。水戸黄門みたいだと巽は思った。
この老人が天羽氏らしい。
「お久しぶりです」
正座した銭形は、ぺこりと頭を下げた。
天羽老人はにこりと微笑んだ。
「相変わらず、お忙しいようですな」
低いバリトンの声だった。年の割りに張りがある。
「貧乏暇なしを地で行っております」
銭形は苦笑し、「今回はこの男を鍛えてやろうと思いましてな」
と、巽を親指で指した。
「若いが、まあ見所はあるようです。何しろ進んで私の部下になったというんですからな。物好きな奴です」
銭形の言葉が意外で、巽は少し嬉しくなった。
感心したように老人は年に似合わず綺麗な白い歯を見せ、
「それは素晴らしい。お若いの、お名前は何とおっしゃる?」
「た、巽といいます」
慌てて頭を下げた。
「巽殿、この道場にはあらゆる武道の達人が参っておる。見るだけでも、きっとあなたの役に立ちましょう。――おお、それに」
ぽん、と膝を叩いて老人は続けた。
「ちょうど今、珍しい客人が逗留しておる」
ほう、と銭形は頷いた。天羽老人が客というからには、よほどの人物なのだろう。ただ単に修行に来ただけの相手をそう呼ぶはずがなかった。
「お呼びでございますか」
老人に言われて若い弟子が出て行った後、一人の男が廊下から声をかけた。凛とした、折り目正しい声だった。これがその客人とやらだろう、とそちらを見た銭形は絶句した。
相手も顔を上げたとたん、目が点になった。
「ご、五右ヱ門……!」
「銭形警部……!」
よりにもよって、ルパン三世の仲間であるところの侍、即ち十三代目石川五右ヱ門がそこにいた。
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